昭和56年2月23日 朝の御理解                 中村良一

御理解 第34節
「ここへ参っても、神の言うとおりにする者は少ない。みな、帰ってから自分のよいようにするので、おかげはなし。神の言うことは道に落としてしまい、わが勝手にして、神を恨むような者がある。神の一言は千両の金にもかえられぬ。ありがたく受けて帰れば、みやげは舟にも車にも積めぬほどの神徳がある。心の内を改めることが第一なり。神に一心とは迷いのないことぞ。」



三代金光様が、あー、お身体が、お悪い時に、主治医の先生が、お休みになる時には、右枕ですかね、向きにお休みにならなければいけません。おなかの、その、ま、具合にかかわる事ですからと言うて,申し上げて、そして、また翌日、お家に見えた時に、やっぱり、右枕で、家庭のお家の方から聞かれて、金光様は、先生から、あぁ言われて、ずーっと右向きに休んでおられたと。だからもう、金光様には、あー、もう本当に、あの、何ち言うかね、えー、もう、いい加減な事は言えないという意味の事を、あの主治医の先生が話されたという話を聞いたことがあります。ね。大概のものが、そら、大体、右向き寝たが良かろうけども、左向きに寝らなきゃきついからね。けれども、そう言われて、一日、右向きにお休みになったと。だから、金光様にはもう、いい加減な事はいわれんという意味の事を、まぁ、言われたという事でございますけれども。信心には、やっぱ、それが、大切だという事を、今日の御理解では、教えてあると思います。神の一言は、千両の金にも替えられぬ。ありがたく受けて帰れば、舟にも車にも積めぬほどの神徳があると仰る。その、神徳が掛かってるんです。ね。ところが、それを、右、左にする、いい加減にするという事ではならん。神の言うとおりせずに、自分の良いようにして、おかげを落として、神を恨むような者があるという風にね。もう、本当に、神様の一言が、千両の金にも替えられぬという頂き方が大切なんです、信心には。ね。それこそ、まぁ、医者に掛かりますと、医者が、こういう食べ物は、食べてはいけません。ね。こういうようなことを、不養生な事はいけませんと、まぁ、色々な注意を受けたり致します。だから、やはり、お医者さんに掛かるなら、お医者さんの言われるとおりにしなければいけないようなもんです。ね。信心も、同じことです。ね。神の言うとおりにする者が少ないと。まぁ、どこもここもとは、頂けんにしましても、日に日に頂く御理解の、ここだ、ここが頂かなければと、めいめい頂いたところを、やはり、それを、守らせて頂いておるうちに、いつの間にか、なら、お医者さんが言われる通りにして、健康になるように、いつの間にか、言うなら、それが、徳の積み重ねにもなってくるようなもんじゃないでしょうか。
昨日、森部の高山さんが、ここでお届けをされますのに、今朝方から、お夢を頂いたと。もうその、お風呂が、もう、それこそもう、底まで透き通るような美しい、そのお湯が、それももう、どんどん越しておる。ね。それこそ、勿体ないように越しておる。そしたら、誰かが、勿体ない事はない、下にちゃんと、タドンが、大きなタドンが入れてあって、それで湧いておるのだから、あー、どんどん越しても良いと、そういう風な事を、まぁ、言われたと。そういいながら、自分が、何か、洗面器に、汚い自分の、何か吐いたようなものを、その、どうした弾みか、お風呂の中に入れた。はぁ、こらしもた、こんな事してと、思わせていただいたら、それが、どんどん越しよる。越しよるからもう、下に沈まんなりに、ざーっと流れ出てしまったというところを頂かれた。そして、誰かが、また言われるのに、んー、もう、この上も、タドンが燃え尽きたから、今までのようなわけにはいかん。それでもう、後は、そのタドンじゃなくて、あの、薪で焚きますというお知らせを頂かれたというんです。どういう事だと思いますか。ね。私は、合楽の事だとこう思いました。今、合楽では、それこそ、それこそ、澄み切ったようなお湯が、もう、それこそ、毎日毎日、入れ替えられて、しかもそれが、越すように、どんどん出ておる。例え、間違った事、または、汚いものを、それに入れても、中に沈まないくらいに越しよるから、出ておるというのが、今日の、合楽のゴヒレイの模様じゃなかろうかとこう思うのです。ところが、それとても、やはり、ね。もう、そのタドンも、燃え尽きるとこういうのです。まぁ、いうならば、私の、タドンのような修行と言うのじゃないでしょうか。色は黒うても、タドンの様でもというような、あの、御理解頂きましたよね。それこそ、まぁ、あー、ま、いうなら、人の御用の出来んような苦労もさせていただいて、それが、神様の目に止まり、ね。今日の合楽がある。ね。タドンのような、いうならば、修行が土台になって、今日の合楽があるけれども、そのタドンとても、ね。何時いつまでもという訳にはいかん。燃え尽きる時がある。けれども、後は、タドンではなくても、薪でおかげが受けられる。薪で、いうならば、そのお湯を沸かすという風に、まぁ、言われたという、ま、お知らせであったという事です。ね。ね。私とても、言うなら、何時いつまでも、もう、生きるというわけにはいきません。燃え尽きるときが必ずある。ね。けれども、そこには、合楽には、いうならば、合楽理念なら、合楽理念という、ね。誰でも、それを本気で行じようとすれば、行じられる、おかげの受けられる、お徳の受けられる手立てが、合楽理念に説き、また明かしてある。だから、これを、ほんなら、私の子供達が、また、合楽のご信者の皆さんが体得して、これを行じていかれさえすれば、おかげは頂かれる。ね。
中近畿の、青年教師の、あの、大阪講演の、ちょうど、一年ぐらい前から、合楽に、何回も何回も見えられました。それで、是非、私に、まぁ、あちらに話しに、講演を開きたいから、お話に来ていただきたい。何べん見えても、私は、外へは出らない。お話には行かない。お話が頂きたいなら、合楽に来てくださいというのが、三回ながら、そう申しました。ね。そして、四回目には、今の、布教部長である、宮田先生を初め、精一杯の方々が一緒に見えました。ね。そして、その、当時の、あちらの教務所の所長をしておられました。その所長が、わざわざ見えられて、ま、色々、こんなわけで、是非一つという事でございました。時に、もう、私は、ま、お知らせと言うか、あの、金光様のお書きになった、あー、軸を頂いておりましたから、ね。それで、腹が決まっておるところへ見えましたから、オーケーしたわけです。お受けしました。そしてまぁ、あちらへお話ししに行くことになったんですけれども、んー、そん時に、青年教師の方達が見えた、何回目かでしたが、今日こうやって、合楽にゴヒレイが輝いておりますけれども。これはもう、どこの例でも同じですけれども、ね。初代の時には、大変、おかげを頂いたというのが、二代になり、三代になって、火が消えたように淋しゅうなって行くのは、どういうわけでしょうかと。合楽教会は、どうでしょうかと言うて、私に、質問を受けました。ね。だから、私は、他所の教会のゴヒレイじゃ、聞いたところ、そんなとこは、私には、分かりませんけれども、ね。合楽の場合は、そういう事は無いでしょうと。ね。勿論、あの、合楽理念がある限り、合楽理念を行じていく限り、合楽理念を行ずるという事は、見やすく、誰でも行じられるように出来ておるのですから、それをもう、行じなくなったらもう、終いでしょうけれども、合楽理念が伝わっていく限り、合楽のゴヒレイは落ちないでしょうと。言ったような意味の事を、返事した事がございます。ね。それがどういう事なのかと。いうならば、タドンが燃え尽きたら、後は、薪でという事は、薪という事は、私は、真心だという事だと思うです。真の木。ね。真心というのは、ね、まぁ、結局、信心は、真心の追求と言われておりますけれども、合楽理念を紐解くと、それが、歴然と、はっきり説いてあるのです。ね。その、真心にならせて頂く手立てが説いてあるのです。ね。ですから、しかもそれが、そんなに茨の道を歩かねばならんといったような修行が伴うものではなくてです、ね。もう、日々、人間が、人間らしゅう生きながら、それを行じていけれる手立てが、合楽理念。それが、合楽の薪なんです。だから、その、薪そのものを、皆さんが、今、頂いておかなければならんと。頂いてみて、分からんところが、今ならば、いうならば、お尋ねする事も出きりゃ、または、分からせて頂く事も出来るのである。ね。ただ、お取次ぎをいただいて、おかげを頂くというだけではなくてね。いうならば、日々、申しますように、合楽理念の実験実証を、いよいよ、積みに積んだ上にも、積み重ねていって、それを、薪にしておかなければならない。めいめいの、真心の生き方というものを、体得しとかなければならない。ね。そこからです、タドンは、例えば、燃え尽きても、薪で沸かすというおかげが受けられうると。ね。神の言うことは、いうなら、途中で落としてしまいというのではなくて、ここで頂く御理解はです。皆さんが、ね。タドンが燃え尽きた時にでも、頂けれる真であり、薪であると分からせて貰うて、本気でそれを、ね。自分のものにしておかなければならんという事だと思います。ね。なるほど、めいめいの御用の上に、丸々、いうなら、ね。例えば、お百姓なさる方ならば、もう、お百姓は、合楽理念をもってするほかはないと、断言できる、言いきれれるだけの信心を頂いて頂きたいという風に思います。ここであの、昨日、高山さんが頂かれたお知らせでございます。今日の御理解の、言うなら、神の言うことは、途中で落としてしまい、神の一言は、言うなら、千両の金にも替えがたいほどしの、いうならば、重みのあるものですから、それを、重みのあるものとして頂き、自分の血に肉にしておかなきゃならんという事であります。どうぞ。